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日頃、率先して行動することがない私が、大地震の中、気付いたら中真感覚の発露によってリーダーとして行動していた

  • (MRT大宮(旧MRT仙台) 39歳 男性 T.K.)
  • 掲載日:2012.02.08

◆MRTとの出会い

 MRTに出会ったのは、二二年前の一七歳のときのことです。当時、歩き方が悪かったために右足首を捻挫してしまったのですが、そのまま放置していたら、足に力が入らなくなって、右足首が変形してしまいました。そこで病院や様々な治療にも通いましたが、いずれも効果はなく、何とかこの右足首の捻挫の後遺症と子供の頃からの側湾症を治したいと思っていたところ、書店で師尚の御本『神秘の骨「仙骨(せんこつ)」に無痛ショックを与えると病気は消える』に出会い、早速MRTオフィスに電話をしました。
 初めて治良を受けたときは「あっさりしている治良だなあ。早いなあ」と思いましたが、それでも、治るか治らないかは別にして、二回目も来てみようという気持ちになっていました。とにかく現代医学では治らないので、治したい一心でMRTに通おうとしていたのだと思います。
 そして、治良を続けているうちに捻挫した右足首にも力が入るようになり、側湾症も改善され身体もまっすぐになってきました。
 それから一~二年ほどして、師尚の御話を直接お聴きする機会を得たことで、単なる病気治しだけではなく、もっと精神的なことを深く学びたいと思うようになり、中真感覚の学びにも参加しながら現在までMRT治良を受け続けています。

◆東日本大震災では、職場の人達を先導して避難しました

 私は震災前は宮城県石巻市の市街地にあるかまぼこ屋の工場(二〇名以下の規模)で宅急便の梱包と配送作業の仕事をしておりました。工場は石巻湾から内陸五~六キロの所にある羽黒山という小さい山の裏側にあり、隣接して北上川が流れています。
 当時、震災の数日前からずっと「何かイヤだな、イヤだなあ」と感じていました。何だかわからないけれどモヤモヤした感覚が心の内で渦巻いていたのです。それでも、いつものようにその日も職場へ自転車で出勤していました。
 そして、二〇一一年三月一一日一四時四六分、大地震発生。天気は曇りでした。
工場の建物の外にいた私が感じた初期微動は縦揺れで、下からツンツンと突き上げるような感じが数回ぐらいありました。その後しばらくして大きな本震があり、道路が眼の前で盛り上がっていくのを目にしながら、これはいつも宮城県で起きているような地震とは違うと感じました。大きな揺れに周囲の人達は座り込んでいましたが、自分は立ったまま地震の揺れを感じていました。
 上司や工場側から避難の指示などは特にありませんでしたが、「とにかく津波が押し寄せる前に一刻も早くここから離れたい! 上のほうへ、高い場所に行きたい」という気持ちが強く湧いてきました。その自分の中真感覚を頼りに「逃げましょう!」と周りに声を掛け、一斉に駐車場へ避難しました。周囲にいた人は自分以外は女性で、恐怖感で悲鳴を上げたり、泣き出してしまう人もいました。工場の向かいにあった全面ガラス張りの店舗のガラスは割れて散乱しています。とにかく自分達のことだけで精一杯で、工場の中にいる人達のことにまでは気が回らず、避難するよう声を掛けることもできませんでした。
 しばらくはその駐車場でじっと待機していたのですが、近くの建物が余震で揺れて倒れそうになっていましたので、皆でもう少し先の広い駐車場へと避難をしました。
 余震がある程度収まってから、さらに避難しようということになり、皆で工場の休憩室に一旦戻って荷物を用意しました。とはいっても、工場では特に日頃から防災訓練などもしておりませんから、防災用品などの用意は全くありません。普段、通勤に持ち歩いているものと防寒具を持って、ただ逃げるのみでした。上司からも誰からも指示がありませんので、「自分達は山に逃げますから」とだけ伝えました。気が付くと自分が皆さんに向かって「山に逃げましょう!」と声を掛けていました。山は工場の目の前で歩いて二、三分の所にあります。道は階段が整備されていましたので、山の上の体育館までは一〇分ほどで着きました。
 しばらくして落ち着くと、皆、携帯電話で家族の安否の確認を取り始めました。ところが電話が全く繋がりません。しかも、自分は携帯電話を持っていなかったので、他の人にお願いして自宅に電話を掛けてもらったのですが、やはり繋がりませんでした。それでも職場の皆は、何とか連絡を取ろうと必死に携帯電話を掛け続けていました。自分はそこで、ふと、山の上にある総合体育館の近くに公衆電話があることを思い出し、早速そこへ行って自宅に電話を掛けてみたところ、自宅が固定電話だったこともあり、電話が繋がり、ここより三キロ内陸にある金津町に住んでいる親と連絡を取ることができたのでひと安心しました。皆、携帯電話のほうが便利だと思ったのか、結局、公衆電話から掛けたのは自分だけでした。
 そうしているうちに、体育館には続々と避難してきた人達が集まり始め、建物の中は人で一杯になりました。百人以上はいたでしょうか。避難してしばらくしてから雪が降ってきました。濡れている人はおりませんでしたが、雪と夜になったことでかなり寒くなってきました。そんな状況の中で、その日はその総合体育館の中で一泊することになりました。

◆食べる物は豆腐とかまぼこだけ

 寒い夜が明けて、職場のリーダーの女性をはじめ二、三人が山の麓の状況を確認しに行きました。私と共に山に逃げた人以外の工場の人達は、近くの社長の自宅に避難していました。工場は山の裏側で一メートルぐらいの津波は被ったものの、津波の水も引いておりましたので、工場まで行って食料を確保しました。といっても食料は工場に残ったかまぼこしかありません。山の上は広い平坦な台地になっており、体育館、中学校、コンビニと住宅地が広く点在しています。水は近くの中学校の傍に浄水施設がありましたのでそこで確保することができましたが、水をもらうには列に並ばなければならず、しかも水を入れる容器が必要でした。皆、着の身、着のままで逃げてきたのでそのような容器の用意はなく、近くの知人宅からペットボトルを譲り受けて水をもらったり、コンビニに行って水を買ったりしていましたが、私はちょうど水筒を持っていましたので、それに水をもらうことができたので不自由することはありませんでした。コンビニには行ったところで、店内に入るのに並ばされているうちに品物もすぐなくなってしまうだろうと思い、買いには行きませんでした。
 一日目は行政からの支援はありませんでしたが、二日目には豆腐とペットボトルのお茶の差し入れがありました。「何故豆腐なのだろう?」と思いましたが、近くに豆腐工場があるのでそこの商品のようでした。しかし人数分の用意はなく、二~三人に一つしか配給されず、二つの豆腐を八人で分けて食べました。食べたものは、豆腐とかまぼこだけでした。

◆全てが流され混沌としていた街

 地震が収まっても、その二日間は防災無線による大津波警報が鳴りっぱなしでしたので、恐ろしくて山からは下りられませんでした。この地域で津波警報が出たのは初めてのことですが、警報は男性のアナウンスで「大津波警報が出ました」と繰り返して連呼するばかりで、詳しい情報などは一切知らされることはありませんでした。
 一三日の朝早く私達のグループ八名は、それぞれ自宅に戻ろうということになりました。状況次第ではまたこの体育館に戻るということにして、そこからはそれぞれ個別に行動をとることにしました。まず様子を見に山を下りて周囲を見渡してみると、ゴミやヘドロ、死んだ魚、車や船などいろんな物が流れ着いていて折り重なっていてグチャグチャでした。ヘドロの臭いがして、水は黒っぽく濁っていました。周囲の人にいろいろ聞いて回りましたが、どこもかしこも水浸しで歩けるような場所はありません。そうして何度か体育館と麓の階段を行ったり来たりしたのですが、最終的には意を決して自宅まで歩いて行くことにしました。
 一三日の午後から、膝の辺りまで水に浸りながら少し歩きましたが、自宅の方角から来る人達に話を聞いてみると、水が腰の辺りまで浸かっているというので、濡れるのはまずいなと思いながらも、歩き始めたからには諦めずに帰宅しようと決意しました。途中で少し休憩していたところ、近くにボートがあるのを発見しました。一緒に居合わせたおばあさんと共に持ち主の人に頼んで近くの高校まで乗せてもらい、そこからまた他の人のボートに乗り継いで、自宅近くの橋のところまで乗せてもらうことができました。そうして夕方暗くなる前にやっと自宅にたどり着くことができました。

◆助かっても避難所で生活することに

 海岸に面した地域一帯は、津波で何もかも流されてしまいましたが、羽黒山がちょうど防波堤のような役目をしていた山の裏側の住宅は床上浸水で留まりました。津波の水が隣接する北上川を遡って溢れたために、川の周囲の家は半壊し、川の大きな中洲には映画館もあったのですが、それも全て流されてしまいました。工場からさらに内陸に三~四キロ行った所にある私の自宅は北上川の水が逆流してきて床下浸水になっていました。自宅にこのままいては危険だということで、近くの蛇田小学校に家族で一週間避難することになりました。
 その小学校には数百人もの人達が既に避難してきており、冷たい固いおにぎりが配給され、水は給水車が来ていました。毛布は一グループに一枚しか配給されませんでしたが、私は知人のつてで毛布を借りて暖を取ることができました。毛布がない人はもうそのままで寝るしかありません。余震の度に悲鳴が上がりました。コンビニでお酒を買ってきて飲んでいる人、豪快にいびきをかいて寝ている人、中には奇声を上げている人もいましたが、比較的冷静に避難所の秩序は保たれていたように思います。
 その後にかまぼこ工場は二ヵ月ほどで復旧し、私は三ヵ月ほど経った六月頃に仕事に復帰しました。周囲はまだ瓦礫の山で、工場の復旧は早いほうでした。工場の配送センターの従業員一〇人のうち、震災の日にたまたま休んでいて、自宅が工場よりもっと沿岸のほうにあった方一人が津波に飲まれて亡くなったと聞きました。

◆今回の体験で感じたこと

 今回、東日本大震災を体験して「師尚のおっしゃっていた通りだった。『霊止乃道』の御本や『月刊MRT』に書いてある通りのことが起きたのだ!」と思いました。そして「起きることは避けられない、全て決まっていることなんだ」と改めて気付かされました。
 私の父が若い頃に昭和三五年(一九六〇年)のチリ沖地震による津波を岩手県・大船渡で体験していましたので、地震が来たら山や高台に逃げろと聞かされていましたし、テレビで奥尻の震災のニュースを見ていて、津波は突然来ると聞いていましたので、とっさに山に逃げることしか思いつきませんでした。それを聞いていなければ、たぶん、危機感もなく呑気に構えていたのではないでしょうか。もし、今回自分が海側にいたら、おそらく水没した避難所に誘導されたことと思いますが、自分はそれでも中真感覚が働いて山に一目散に逃げたと確信しています。
 そして今回の震災を体験して、備えておいたほうがいいと思ったものは、胴長(魚屋さんや釣り人が着る長靴と一体になったズボン)やウエットスーツ、レインコート、ペットボトル、防寒着などです。ボートはあれば用意しておいたほうが良いと思いました。
 防災用品の用意も自分でやること、そしていざとなったときは自分の決断と行動が我が身を守ると思いました。日頃の自分は人前に出て人に指示するような立場は苦手であり、どちらかというと指示されて動くタイプです。それがいざ避難する時点では、気が付いたらその場のとっさの行動で自分がリーダー役になって周囲に声を掛け、山に逃げるために動いていました。自分の中の中真感覚で動いていたのです。MRTに出会っていなかったらどういう人生を歩んでいたのだろうかと考えます。死んでしまったかもしれません。しかし、こうして生かされているということは、ここで何かを間練びなさい、理解しなさいということなのだなと今になってひしひしと感じています。
 MRT仙台は震災後、MRT京都に引っ越しましたが、中真感覚の練磨と、自分の理解のためにこれからも引き続きMRT大宮で治良を受けていきます。震災の体験を通じて、今までの受動的な立場に甘んじているのではなく、今回のことでやればできる自分を発見しました。自分の人生は自分自身で切り開いて「道」をつけていくこと、そして、守護乃神霊にいつも護られている自分であることをハッキリと自覚致しました。

※体験談は個人の感想であり、MRT治良の効果を説明・保障するものではありません。

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